リスト・フェレンツ
(1811−1886)
リスト・フェレンツはハンガリーの最大の作曲家として知られています。彼は長い間ドイツに住んでいて、ドイツ語読みの名前「フランツ・リスト」とも重なり、彼をドイツ人と思っている人が多いでしょう。
リストはどこの人でしたか?
彼はハンガリーの「ドボルヤーン」と言う小さな村に生まれて、父はハンガリー人、母はオーストリア人でした。(生まれた村は第一次世界大戦からオーストリアになって、現在の名前は「ライディング」)リストは生涯に渡って「私はハンガリー人です」と言い続けました。彼はドイツ人とも、フランス人とも、世界人とも一度も言いませんでした。パリヘ音楽を学びに行って、青年時代におおかたフランスに住んでいたので、フランス語が第一言語になりました。しかし、コンサートの際、ハンガリー様式の服装で出演することがたくさんあり、ハンガリー民謡を採集する計画を立て、ブダペストの音楽院
(現リスト音楽院)の創設者としても大きな役割を果たしました。彼は最後の言葉として 「ハンガリー語は全く話すことが出来なかったけれども、生まれてから死ぬまで、精神的にも、心理的にも、頭のてっぺんから足のつま先まですべてにおいてハンガリー人です」と残しました。
ピアノの魔術師と呼ばれたリスト
1811年にヨーロッパの空に彗星が出現し、同年、リストは彗星のごとく現れました。彼はおそらく音楽の歴史上、最高のピアニストだったと言えるでしょう。
あるロンドンのコンサートの後でエステルハージ・パール(オーストリアの大使)は次のように話しました。
「リストにとっては、どんなに難しい曲でも正確に、大胆に、エレガントに、そして情熱的に、感情的に、さらにすべての色合いまでも簡単に表現しています。ほとんどの曲を暗譜で、演奏中に観客の中に知人がいると微笑みかけていました。」他の人は「ピアノの魔術師と呼ばれたリストは独特な個性と風貌で、催眠術をかけるかのように魅惑的に演奏していた」と言っていました。コンサートの雰囲気は霊的なものを感じさせる程、ミステリアスなものでした。
現在のスタイルのようなピアノソロのコンサートは、リストが初めてでした。
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史上初、すべてのプログラムを暗譜で演奏しました。
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史上初、バッハからショパンまで様々な年代の曲をプログラムに採り入れて演奏しました。
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史上初、音の響きのことも考え、客席に向かってグランドピアノのふたを開けました。
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史上初、北はサンクト・ペテェルブルグから南はジブラルタルまで全ヨーロッパを郵便馬車で演奏旅行を果たしました。
リスト記念博物館 |
リストの書き物机 |
当時の音楽家の社会的立場
ハイドン、モーツァルトは、付き人として裏口からしか宮殿に入ることが出来ませんでした。
ベートーヴェンは個性を認められ、ウィーンの貴族と同じレベルにまでなりました。
リストは天性の才能を認められ、王皇貴族とも対等の立場にまで到達しました。
リストのパーソナリティ
リストはチャリティー活動として、ケルヌ大聖堂とブダペスト大聖堂の早期建設を願って、ペスト市の洪水、ハンブルグの大火事の被害者のためになど、数多くコンサートを開きました。
ドイツのワイマールで音楽監督として活躍した時、ベルリオーズ、ワーグナー、そして他の若い音楽家達を無私無欲に支持ました。
数多くの約束事を守らないことは全くなかったと、友人知人の手紙で伝えられています。
特に女性の間でとても人気になりました。イギリスで、ビクトリア女王御臨席のコンサートの時、同席していたレーディ・ブレシングトンは
「こんなに素晴らしい人をピアノの前だけに座らせておくなんて、もったいない。」と彼の人間性を高く評価しました。
リストの女性関係
カロリーヌ・ドサン・クリック
リストは17歳の時、パリでカロリーヌにピアノを教えているうちに恋に落ちました。リストは当時まだ無名で、社会的地位も低かったため、次官として働いてたカロリーヌの父は、彼女を南フランスに送還しました。まだ若かったリストは、悲しみのあまり、長い間家にこもってしまいました。その後、カロリーヌは結婚しましたが、リストはカロリーヌとの恋を忘れませんでした。数年後、リストの生涯の中でたった一度だけカロリーヌに会いに行きました。晩年に、リストは形見として素晴らしい指輪をカロリーヌ宛てに送りました。
マリー・ダグー伯爵夫人
パリの貴族社会の中でマリー・ダグー伯爵夫人と出会い、熱烈な恋に陥っていきました。マリー・ダグーは、主人の元離れ、リストと共にスイス、その後イタリアに移り住みました。ブランディーン、コシマ、ダニエルの3人の子供達に恵まれました。(後に、コシマはワーグナーと結婚しました。)
リストは長い間子供達の元を離れてしまい、見ることができないことが時々あり、それでも子供達のために送金して、彼らの教育を大切にしていました。子供達に対する考え方の違い、マリー・ダグーの嫉妬、これら2つの事が、言い争いの要因となり、リストの関係が崩れていき、10数年後には、お互いの道を進むようになりました。
カロリーネ・ザイン・ヴィトゲンシュテイン公爵婦人
ポーランド出身のカロリーネとリストはロシアのコンサート旅行の時に知り合いました。才女として知られていたカロリーネは神学の論文等を書きました。ワイマールで、リストと一緒に暮らしていた時、音楽に関する論文を共に書き、数多く残しました。カロリーネには主人がいたため、ワイマールではスキャンダルな悪い噂を立てられました。リストとカロリーヌは、お互いに結婚したいと願っていました。そのため、2人でローマの法王の所に出向き、一度は主人との離婚の許可が下りたものの、主人の家族の膨大な力によって、その許可は取り消されてしまいました。その後、2人は別々に暮らすようになりましたが、生涯の友として、連絡を取り続けました。
作曲家としてのリスト
リスト音楽院
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リストはピアニストとしてヨーロッパを演奏旅行している時に、他の作曲家のオペラ、歌曲、管弦楽曲などの作品をピアノソロ曲ように編曲し、演奏しました。彼のピアノ作品の中で「ロ短調ソナタ」は最も有名で、音楽史上でも高く評価されています。
リストは管弦楽の作品で、ベルリオーズの影響を受け、今までに類を見ない 「交響詩」と言うものを新しく作り上げました。この「交響詩」と言う標題を持った音楽作品は、保守的な以前の音楽家達に断固として反対されました。この時期に、ライプツィヒでは(保守的な)以前までのロマン派の音楽を、そしてワイマールでは(開放的な)新しいロマン派の音楽をお互いに競い合っていました。「私の作品を聞く時には、聞く前に悪評を言っておかなければ罪になる」とリストは言いました。彼の説明通り「標題を持った音楽と言うものは作曲工程も表現できて、それによって、インスピレーションまでも感じることができるほど没頭させる音楽だ。」
リストは真のロマン派の作曲家でした。そして「交響詩」の存在によって、新しい音楽の世界に大きく一歩踏み出しました。
バルトーク・ベーラ
(1881―1945)
バルトークは20世紀最大の作曲家の一人として知られています。青年時代に友人のコダーイと一緒に農村などの小さな村ヘ出向き、当時エジソンによって発見されたばかりの蓄音機を使って、ハンガリーの民謡を録音し、それを研究していました。これからの民謡は口伝えによるものだけだったので、楽譜も、録音されたものも何一つありませんでした。
第一次世界大戦によって、ハンガリー領土は3分の1程に減ってしまい、失った場所に居た住民は、昔の民謡をたくさん知っていました。 バルトークとコダーイがこの民謡の録音採集を行わなければ、時間とともに伝統までもすべて失ってしまっていたでしょう。なぜなら、民謡を知っている人達はどんどん年老い、
若者は町中に出て行ってしまっていたからです。
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バルトーク記念館 |
ハンガリー音楽の源に戻りたい
バルトークは青年時代に、ワーグナー、リハルド・シュトラウス、ドビュッシーの影響をも、普通に受けていました。
喫茶店やレストランで日常的に演奏されていたものを、多くの人は本当のハンガリー音楽だと思い込んでいましたが、バルトークにとって、それらの音楽は、素晴らしいと評価出来るものではなかったのです。だからこそ、バルトークは真のハンガリー音楽を見付け出し、ハンガリー音楽の源に戻りたいと思っていました。ヨーロッパの伝統的な音楽と、真のハンガリー音楽とを結び付けたいと思っていました。ハンガリー民謡の音楽要素を分解し、バルトークなりに消化し、個性的で、数学的な手法と結び付けて、独特の音楽奏法を発展させました。
バルトークの有名な曲
バルトークの唯一のオペラ作品「青ひげ公の城」は1911年に作曲されました。公爵が自分の妻を次々と殺してしまうと言う物語を基盤として、男女関係における男性側の感情を表現しているオペラです。語りかけるようなリズム、バラード調、印象主義的、これら3つが特徴付けられる曲になっています。
ブダペストにあるカンタタプロファナの9頭の鹿の銅像
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「カンタータ・プロファーナ」はテノールソロ、合唱、管弦楽曲です。
9人の若者が森に行き、自由の世界が欲しかったために鹿に変身してしまったと言う物語の根源にバルトークは共感し、音楽表現に活かしました。この内容は、街の造られた世界対、自然のままのきれいな世界、制圧された世界対、宇宙的自由な世界、これらの対比を表現しています。
バルトークの生涯において作曲された作品の中で6つの弦楽四重奏曲が傑作と言われて、特に4、5、6番の緻密な構成(シンメトリー)が高く評価されています。
管弦楽曲の中で「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」が代表的と言えます。民謡を採り入れて、数学的な構成の中に印象主義の影響を受けた、独自の音楽のスタイルになっています。
情緒豊かなピアノ協奏曲第3番は、彼の妻「パーストリ・ディッタ」に捧げるために、晩年に作曲されました。
コダーイ・ゾルターン
(1882―1967)
バルトークの友人として知られているコダーイは、一緒にハンガリー民謡を収集して歩きました。
作曲家としてのコダーイ
青年時代、ドビュッシーを尊敬し、彼のスタイルを真似したような音楽を作りました。トスカニーニが指揮したニューヨーク公演で成功を納めたのは、同時期に作られた曲です。
彼はハンガリー民謡を元にたくさんの管弦楽曲を作曲しました。その中でも変奏曲的に作られた「孔雀は飛び上がった」と言う曲が最も傑作と言えるでしょう。
コダーイの音楽は、ハンガリー民謡が根源となっています。
「ハーリ・ヤーノシュ」は世界的に知られているオペラ作品です。ハンガリー人は、ハーリ・ヤーノシュと言う名前を聞いただけで、罪のない嘘をつき、自分を誇張する人を連想します。
音楽の指導者としてのコダーイ
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ハーリヤーノシュのLP版ジャケット |
有名な「コダーイシステム」の基盤は、日頃から歌を歌うように、そして移動ドから基付けられています。この移動ドと言う理論は、譜読みをより簡単にし、子供の頃から音楽の知識を植え付けることを可能にしました。コダーイの目的は、音楽の知識を世間一般に広めていくことでした。彼の活動のおかげで、ハンガリー国内の合唱団が数多く設立されて、音楽専門の小学校の数も増加しました。
コダーイはハンガリー科学アカデミーの院長に、それからベルリンのフンボルト大学、イギリスのオックスフォード大学の名誉教授に就任されました。
コダーイの権威
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子供達に囲まれたコダーイ |
ハンガリーの共産主義時代で最も厳格だったのは1950年代でした。
当時、知識人達に対し、共産政権の批判をしないように促しました。その時ハンガリー共産党の闇の権力者「ラーコシ」はコダーイを呼び付けました。
「コダーイさん、私は最近あなたについての良い噂を聞いていません。」これは、何かしら処刑されると言う意味のある言葉でした。
ところが、コダーイは動じることなく、「私もあなたについての良い噂を聞いていません」と言い返すとすぐに、出て行ってしまいました。
他の人なら、処刑されて当然のはずなのに、コダーイには国際的な権威があったので、何一つとして問題になりませんでした。
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